1 深化という新しさ
2015年9月、ソウルに崔明永個展を見に行った(「崔明永・平面條件」展、The Page Gallery、8~9月)。それは、1975年の作品から新作まで、いわば回顧展を兼ねた新作展で、かなり規模が大きな展示だった。崔明永さんに会うのも本当に久しぶりで、彼の作品をまとめて見るのも久しぶりのことだった。会場を回りながら、例えば《平面條件 8196》(同展図録番号29番)のような白を何層にも塗り重ねたモノクロームの作品群の前に来ると、眼が自然に強く反応することに気がついた。僕が始めて韓国を訪れて韓国作家の作品を初めて「現地で」見たのは1981年のことだったが、確かその折には崔明永さんのアトリエも訪れ、そのときに見たのがこの作品群だったからだろうか。
35年ほども前のことだが、大きな感銘を受けたのである。僕は彼より5歳年下で、2015年には、おたがい歳を取ったこともあって、展示場で僕の身体と眼が、自分も知らないうちに、センチメンタル・ジャーニー(感傷旅行)的になっていたのかもしれない。そういうことは、あるのだ。しかしそのことに気がついて、そういうセンチメンタリティー(感傷性)を振り払ってみたとき、会場の作品群を見渡して、僕は二つの印象をもった。
一つは「本質的な変らなさ」とでもいうべきことである。真正の画家は、本質的な画家は、若さにまかせての試行錯誤の時期を過ぎ、自分が実現すべき「絵画」のいわば広がりを感覚的に把握すると、その後は一貫して変らないものであるらしい。変りようがない、と言うべきかもしれない。変ることができないという才能がある。近代のある時期以降、「新しいものほど良い(The newer the better)」とか、表現は常に新しくあり続けなければならないといった考え方がだいぶ幅を利かせてきている。そんなことは不可能だとは言わないけれど、少なくともそれは絵の「表面的な様式」の変化ではない筈である。変化、展開とは、深みへ向うものであるだろう。ただ、絵画という平面作品では、その「深さ」はあくまでも平面上で展開される。ここに、絵画という芸術の困難がある。と同時に、どんなに困難でも、そこにこそ「深化」という新しさの可能性がある。「絵画」とは進化する芸術ではなく、ひたすら「深化」すべき芸術なのである。
もう一つは、その「深化」のなかの「変化」ということで、とくに1997年以降、現在に到る彼の作品群のなかに、それを感じた。これについては、日本に戻ってから、少し時間をかけて考えてみた。
なので、この文章ではこの二つのことについて書いてみることにする。
2 助走
1941年に生れた崔明永は1960年代半ばに学業を終える。そして、若年期の試行錯誤を経たあと、1976年に初個展を開く。それ以降の彼の歩みは一貫しているといっていい。しかもその一貫の仕方は、彼の作品の題名となる「平面條件」に絞っているという意味で、徹底している。この「徹底」ぶりは、画面構成の仕方・色彩・筆触・使う材料(絵の具、支持体、筆など)を限定するところまで及んでいる。主題・方法・材料をミニマライズ(minimalize)している。ここで欧米の「ミニマリズム」を連想されるとそれは違うので、「削ぎ落としている」と言うべきであろう。自分の絵画思想を極限化していき、結果的に試みが単純化された形をとることになっている、という意味である。
この一貫した試みを理解するために、まず1979年から1981年にかけての3年ほどの時期に注目してみたい。1976年の初個展から大きな転換期に入った崔明永は、この3年ほどの時期で一つの頂点、頂点というよりも極限を体験しているからである。その特徴は、とりあえず画面の表面的な見え方を言えば、純粋に平らな画面、完全に平面的な画面の実現ということである。
作品題名の全てが「平面條件」に統一されるのは1977年からだと思うが、その直前の作品の題名は「等価性(Equality)」だった。それは、縦長の画面を水平に分割し、その水平面のそれぞれに縦方向の筆触を載せる、といった作品である。方法はかなり単純化されている。しかし、画面を水平に分割したことが、まだどこかかつての「構成主義(Constructivism)」を想わせなくはない。また、筆触はかなり抑制されているとはいえ、まだ表現主義(Expressionism)的な表現性が強いと感じさせなくもない。さらに色彩は、個々の作品は単色なのだが、薄い青、薄い灰色、濃い青、濃い焦茶色というように、それなりにヴァリエーションがある。というか、まだ定まっておらず揺れているようで、後のように基本的には白と黒というのではない。
構成、色彩、筆触を複数にしたり、それらにヴァリエーションを付けたりする方が、観客にとっては見やすいだろう。見た目も良いのかもしれない。その代わり、「等価性(Equality)」のシリーズでは単純化、極限化がまだ徹底されていないと感じられる。
3 転換
この作品群をいわば助走段階にして、崔明永の作品は次第に「オール・オーヴァー(all over)」の、塗り跡の筆触をほとんど残さないものとなり、1979年から1981年にかけて、試みの頂点を迎える。例えば油彩の場合には平らに、何層も何層も塗り重ね、結果的に画面が「オール・オーヴァー」になる。画面の四周の端を注意して見ると多層の塗り重ねになっていることが判るけれど、少し離れて見ても、塗り重ねの厚みが自ずと熱気、情念、アウラを生み出していて、それが、観客の眼に造形的(空間的)かつ心的な厚み、揺動というか動き、そしてある種の感動をもたらしている。
それは、画面を平らに(オール・オーヴァーに)しようとか、抽象絵画にしようとして、そうなっているものではない。もっと根本的に「絵画が平面的であるとはどういうことなのか」、つまり「絵画の平面とは何か」という問いかけに発する試みなのである。「絵画平面」を「絵画平面」として成り立たせている「條件そのもの」の探求だということである。これは、一般論としていうなら韓国の「モノクローム派」に共通する関心事(の一つ)だった。そのなかで崔明永が特異なのは、試みを純粋化、極限化していく点である。他のすべての要素、構成とか筆触とか色彩といった要素を削ぎ落として、構成を排除して、平らな塗り方と単色だけに、自分の試みを限定していくのである。彼は、眼に見える世界のなかにあるもの、そして想像のなかに浮ぶもの、その「形」を「再現」するという従来の方法の外側で、「何を、「如何に」描くのかという核心に直接、真っ直ぐに向う。
4 構成
必然的にというべきだろうか、「構成」と呼ぶべきものが姿を消す。平面が平らな塗りで覆われているということじたいが、それだけがいわば「構成」になるほかはない。つまり「構成」を内在化しなければならない。絵画における「構成」を、「形」や「色彩」に頼って作り上げるのではなく、画面の平面の上だけで内在的に集約するのだ。だから従来の意味での「構成」は無くなる。
ちょっと比較をしてみよう。西洋で抽象絵画が展開していったとき、とくに第二次世界大戦後に起ったのは、一方では(例えばフランク・ステラ Frank STELLA のように)、色面をあっけらかんと物質化したことで「構成」じたいが消失すること(ないし横方向か縦方向に色を変えていくことで「構成もどき」を作り出すこと)だった。そして他方では(例えばマーク・ロスコ Mark ROTHKO のように)、思想や内面感情などを力業で画面に塗り込めることによって、「構成」は消失しているのに、その思想なり内面感情が「構成」の代役を果たすことになるという事態だった。しかし、それはあくまでも「代役」なのであって、「構成」ではない。ただ後者のような場合、たとえロスコの天才をもってしても全く平らな色面でそれを実現するのは理論的、また現実的に不可能だから、なにがしかの造形的工夫に頼る他はない。ロスコの場合、それは「筆触」ではなく「色の位相差」であることは周知の事実である。その「位相差」を通して思想や心を暗示する。
崔明永は、勿論、そのどちらの道も選ばなかったし、折衷は論外だった。造形的に「構成」ということを考えずに画面に向った時点で、意識的に西洋でいう「絵画」の外側の、「平面作品」という地平に出たのである。それならその地平は「絵画」とまったく無関係かというと、そうではない。西洋絵画を否定して、その外側に出るけれど、彼は改めて自分の人間的、また絵画的な出自と現状を捉え直すのだ。
「構成」をとりあえず手放して、画面を単色で平らに塗るという方法を採用したとき、彼が直感的に理解したのは、その「行為」は繰り返されなければならないということだった。「自然」とは繰り返すことである。まずそういう自然のリズムに、描く行為を同調させること、重ね合わせてみる。そして反復してみる。問題は理念とか概念のレヴェルのことではないから、反復することで身体と感覚で体得していかなければ話にならない。これは、ある意味でスポーツの練習とか僧侶の修行のようなものだから、つまり実践なのだから時間がかかる。その手間を省くことはできない。誤解はないと思うが、崔明永は描く「行為」そのものに主眼に置いているわけではない。数限りなく繰り返すのは、最終的には繰り返すことなく繰り返すためである。
自然は毎年同じように、でも本当は全く同じというのではないように繰り返していく。彼はそのことに着目する。同じことの反復は、彼にとっては「差」の蓄積でもある。と同時に、同じことの反復は「差」を沈め、鎮めもする。そうやって沈められ、鎮められることで、反復の行為と結果が純粋化する。平らになった画面上に「差」はもう見えない。見えないけれど、感じられはする。
だから、「構成」ということを言うなら、そこに新しい「構成」が生れていると言うことも出来なくはない。それは従来の意味での「構成」ではなく、むしろ「心的に、かつ感覚的に、構造化されたもの」とでも言うべきものである。平面作品であるにもかかわらず、彼の「反復」はそういうひとつの「構造」を生んでいるといってよい。それは、なまじっかな既成の「構成」よりも強いものである。
参考までに、彼は自然を「模倣(Mimesis)」しているのではなくて、自然のリズムに合わせているだけだ。崔明永という東洋人が自然の一部として自然のなかに自然として生れて存在していること、彼はそのことにごく自然に、しかし自覚を経たうえで、従っているにすぎない。
5 色彩
そして、色彩を極度に限定し、筆触を無くすように描く。色彩は、基本的には白と黒だけになる。ただし、周知のように「白」といってもいつも同じ白なのではない。ほんの少しクリーム色を感じさせる白から、白そのものと思わせる白まで幅はある。「黒」もまた然りである。この「幅」がつまりは「色彩」である、とも言いうる。「黒」の濃淡及び描き方と紙や絹布の地の「白」とであらゆる色彩を表現する、というのが伝統的な東洋絵画の色彩観である。そうはいっても、画家として色彩を限定することは辛い。現代とはいえ東洋の画家として、「白と黒」だけで表現できないことはないにしても、許されるなら自由に色彩を使ってみたい。しかし崔明永は徹底して考え、徹底して実践する。
総天然色の自然と世界に対して、もともと絵画は対抗できない。というより、西洋のように対抗しようとすることには、その意欲と努力は認めるにやぶさかでないけれど、根本的に無理がある。根本的に間違っているとまでは言わないが、それは絶対的に不可能なのだから、もともと別の方法を考えるべきだった。「似姿」は、ついに「似姿」にすぎない。東洋人としてはそのように思うほかはない。「別の方法」とは、色彩については、つまりは色数を限るということだが、中途半端な限定は限定ではないから、結局は「白と黒」という一色(ないし二色)に限る以外のやり方は、理論的にもありえないことは明白である。「白と黒」は色数として二つだが、同時に、相補的という意味で「一色」でもある。東洋的な感性では「白と黒」は一対なのである。補色関係というようなことではなく、歴史的、心的、感覚的に、どちらも「表」でもあり「裏」でもある、という意味である。
かくして、一色(ないし二色)への限定は崔明永にとって必然的となった。当然、この限られた状況をいわば逆手にとって、あるいはプラスの要請と考えて、どうにかするしかないし、その方がいい。ここで崔明永が特異なのは、「黒と白」とであらゆる色彩を表現するという東洋の伝統的な色彩観に安易に頼ってはいない点である。この時期の彼の実際の作品を見ると次のようになっている-白も黒も色彩として用いていること、油絵具の白と黒の場合には「地」が存在しないこと(支持体には画布や板を使用)、言い換えれば「地と図」という区別が取り払われていること、墨と紙(韓紙)を使用している場合にのみ四周の端に支持体の「地」がわずかに現れていること、例外に「青」色などを使用している作品があること。
ここから判るのは三つのことである。第一に、彼は白と黒をはっきり「色彩」として扱っていて、また伝統的な東洋の色彩思想も取り入れていることである。「白」の色味にヴァリエーションを付けていることは、墨の黒にあらゆる色彩を見ることに通ずる。
しかし第二に、どう言ったらいいのだろうか、白(と黒)に限定することによって生じている「狭さ」のなかに、彼はある種の「広がり」のようなものを感じ取っているのではないだろうか。あえて「狭さ」を選び、それを引き受けることが、ひとつの「広がり」に到っている。極限化がひとつの広がりをもたらしている。そしてその「広がり」は、「狭さ」でもあるがゆえに、「色彩」ということをいわば中性化する。色彩という問題をどうでもよくしてしまうというのではなくて、最終的にはどんな色彩でも許容する地平を開いている、とでも言ったらいいだろうか。もしもそうだとするならば、理論的には崔明永はどんな色彩でも使うことができる。彼がそうしないのは、現実問題として、「白と黒」以外は、一般的に色彩はなんらかのものなり観念と結びついていて、それを連想させかねないからだろう。例えば赤なら血とか情熱、緑なら木々や草、青なら空や海というように。
そうして、「色彩の中性化」は彼の作品を、狭い意味での「絵画」を、その外側の広がりへと開放しているように感じられる。「絵画よりも大きな広がり」が彼の平面作品の場になっているのである。とすれば、「中性化」という言い方はちょっと違う。これはじつは「色彩」の「なかみ」の変容にほかならないからである。僕たちは、これまでになかった「色彩の在り方」を眼にしている。
そして第三に、「地と図」の区別を取り払っていることだが、これは「筆触」の問題として触れたほうがいいだろう。
6 筆触
たとえば抽象的であっても筆触が表現主義的だったら、作品はあまりにも絵画的になってしまうから、崔明永の場合、色彩の限定はどうしても筆触の限定を伴う。跡を残さないように筆を平らに運んで絵を描く。その試みが極点を示すのが1979年から1981年にかけての時期にほかならない。色彩の限定は1970年代半ばを過ぎるとほぼ「白と黒」になる。他方「筆触」の方は、この3年間以前はまだ揺れ動いており、そしてこの後になると、極点を超えた在り方を獲得する。「筆触」については、この3年間はその意味で分水嶺であり、かつ極点でもある。この3年のあいだの「白」の作品に着目して見ると、画面の手触り(texture)が、肌理が少し粗く、少しザラザラしているものから、全く平らで(flat)、不注意な観客なら機械的に塗ったのではないかと勘違いしてしまうかもしれないくらいのところまで、均質化する。
画面が「抽象的」な作品の場合、筆触は一方で画家の行為、表現性、感情などを直接示しうる手段なのだから、他方で(画家によっては)絵具や画布という物質をして語らしめる手段なのだから、筆触をすべて消していくとは、そのどちらの可能性も排除することになる。したがって否定性を突き詰めていくことになる。はじめから単純化と極限化を目指していた崔明永は、初個展のときから数えると4~5年でそこまで到達したことになる。この到達点の作品では、筆触がほとんど完全に無くなる。また、四周の端を注意して見ても、多層の重ね塗りがほとんど判らなくなり、「地と図」の区別がほとんど無くなる。
不思議なのは、重ね塗りの様子は見えないにもかかわらず、この白い画面が、物理的というよりも心的、感覚的、身体的な、これまでにないひとつの「厚み」のようなもの、言い換えれば「空間」を湛えていると感じさせることである。とはいえ、この「厚み」にはその底に「地」があるわけではないとも感じられる。普通の抽象絵画なら、画面の下の「地」が見えなくても、観客も画家も、「地」の上に抽象画面が成立しているとみなす。絵画とはそういうものだから、そういうものだったからである。しかし崔明永のこの白い作品では、いってみるなら「地」と「図」が一つのものになっている。というか、何かを描くという意味ではこの作品は何かを描いているわけではないから、「図」に相当するものはない。もともと無い。そして「図」のないところには「地」もない。ありえない。
ここではそういうことが起っている。筆触もテクスチャーも持たない白い画面が、にもかかわらずたんなる白い平らな画面ではなくて、心的で感覚的で身体的な「広がり」、ある「厚み」さえ感じさせる、一つの「広がり」を実現している。しかもこの「広がり」は「不可能性の広がり」であり、「厚み」さえ感じさせるからといって決して立体的なものではない。それはあくまでも「平面」の「広がり」なのである。「平面という広がり」なのである。だから、この「広がり」はいわば絵画ではないのだが、名づけるなら、それでも絵画と呼ぶしかないだろう。
次のように言い直すべきかもしれない-「地」と「図」の構造のなかで成立する絵画ではない「絵画」がここに生れていると。それを可能にしているのは、「色彩」ももちろん大事だけれど、「筆触」、言い換えれば「描くことそれじたい」が決定的である。筆を手に持って動かさなければ絵画は生じない。絵画を現実的に生み出すのは描くという行為であり、その行為が現実的に現れるのは筆触と色彩の扱い方にほかならない。絵画思想は理念や観念に支えられもしようが、理念や観念に絵画を制作することはできない。制作行為は手(身体)によるしかない。
「筆触」は英語だと「タッチ(touch)」、つまり「触れること」である。支持体(画布、紙、板など)という物質の面に触れることだ。それゆえ、崔明永が「地と図」という構造を超えたとは、描くという制作行為を「物質」から解き放ったことをも意味している。絵画は、最低限、支持体と絵の具という物質を必要とする。それはそうだ。彼だって支持体と絵の具を使用していないわけでは勿論ない。にもかかわらず、彼のこの3年間の極限的な作品においては、支持体と絵の具の物質性はほぼ無化されている。そして彼の作品は、絵画は、物質性から離れて、これ以上はないというところまで純粋化されているといってよい。
「物質性の無化」を別の角度から言ってみる-物質性を無化された白い絵の具の画面が、不思議なことに、物質の純粋な姿を感じさせる。これは何だろうか。
例えば北米の「色面抽象絵画(Color Field Painting)」のように絵の具をストレートに物質として提示すればそれが物質の純粋な姿かというと、そんなことはない。物質には純粋も不純もなく、ただ「ありのまま」だけがある。それは「純粋/不純」とは関係がない。言いうるのは、物質は必ず人間によって何らかの用途や目的のために使われるのだから、「純粋/不純」とは別に、人間のいわば「手垢」が必ず付くということである。前に挙げたステラでもロスコでも、その絵画には彼らの「手垢」が付いているし、むしろその「手垢」こそが彼らの作品の要になっている。それにたいして崔明永の場合、反復の営為にもかかわらずそこには「手垢」が付いていないのである。どうしてだろうか。
心的、感覚的、身体的な突き詰めた試みが、彼をして「物質性」を超えさせている。「絵の具」、すなわち彼の絵画の表面を成している「物質」が、言ってみるなら彼の「心・感覚・身体」に同調するまでに変容しているのである。そのために、かえって、「絵の具」が絵の具ほんらいの姿、つまり物質に手垢が付着していない状態を見せるに到っている。僕たちはここで、物質のいちばん純粋な物質性を見るという、類例のほとんどない事態に出会っている。
7 表現からの離脱の表現
絵画が別のものに変容する。崔明永のこの3年間の作品で、僕たちはそういう驚くべき事態に立ち会っている。敢えて言えば、彼は絵画を、可能なかぎり純粋に心的、感覚的、身体的な事柄へと変容させたのである。現実の世界や幻想の世界の「形」や「物語」を描くものではなく、西洋的な抽象絵画でもなく、絵画を「心」と「感覚」と「身体」の一つの純粋な綜合、そういう表現の媒体にしたい。そんな欲望が彼にはあるにちがいないと想像する。
これは(これも)韓国の「モノクローム派」の画家たちに共通する欲望であることは確かだ。そのなかでは崔明永がいちばん純粋で、徹底しているかもしれない。その試みにおいていちばん禁欲的かもしれない。譬えてみると厳しい修業に打ち込む僧侶のようでもある。だから、観客はたぶん少し肩が凝る。悪くいうとそこには遊びがない。その代わり、観客の姿勢を正してくれる。例えば僕のように普段は姿勢があまり良くない観客も、彼の作品の前に立つと自然と背筋が伸びる。自分自身の「本然」を思い出させてくれて、おのずと身と心が素直になるのである。観客の背筋は伸びるけれど、作品の方は決して押しつけがましくはない。というか、極限的な試みにしては作品が非常に端正で、静かで、穏やかで、優しい、そういう感触を観客にもたらす。「不可能性の絵画」、あるいは「否定性の絵画」には、えてしてどこか押しつけがましいところがあるのに、不思議である。僕は「極限的」とか「禁欲的」という言葉が正確かどうか、迷っている。端的に「純粋」であると言えば、それで十分なのだろう。
崔明永の作品に「手垢」が付いていないのは、彼の反復(制作行為)が、「表現からの離脱の表現」を求めているからである。「表現」にしがみついて、「表現」に向うという方向性にしがみついていたのでは、結局のところ繰り返し以上のことはできそうもない。かといって、例えばコンピューターのような新しい道具(ツール)をあてにしても、道具はしょせん道具である。それよりはまず、これまでの「表現」から如何に離れるかということのほうが重要である。そして可能ならば、この離脱の過程で、それでも何かできることはないかを探るのである。崔明永の試みが特異なのは、この「離脱」そのものを「表現」に変換しようとした点にある。
19世紀末期以降ずっと、人類の規模でいうなら、絵画には「次の段階」が求められている。ところで西洋は、この「次の段階」というのを次の新しい何かとしか捉えていないようなのである。しかし僕たち東洋人、西洋近代美術にたいしては後発だった非西洋世界の人間は、そうは考えない。西洋が近代美術までで達成したものは偉大であり、それを無視することは現実を無視することである。だからといって、後発地域の過去の遺産をそのまま持ち出したりするのは、劣等感の裏返しか、「逆オリエンタリズム」か、「観光」的発想にすぎない。もちろん後発地域のそれぞれの過去の遺産を大事にし、そこから何かを汲み取ろうとするのは、ごく当り前のことだし、大いに結構なことである。ただそれは、西洋の文脈に安易に乗って次の新しい何かを探すためではありえない。
1941年生れの崔明永はそのことをずっと考え続け40歳を目前にして「表現からの離脱の表現」へ到達する。
8 峠から稜線へ
この3年間の経験を経ると、崔明永は自分のこの新しい「絵画」をコントロールできるようになる。具体的にいうと、まったく平らな画面が少し変化を見せていく。しかしそれは、峠を越えて山の反対側へ降りるのではなく、峠から山の稜線への道を取ったということである。芸術に山頂はない。しかし山頂を目指さなければ芸術ではない。一つの峠に達して、才能とエネルギーを使い果し、そこから下山してしまうことはある。1982年以降の崔明永の歩みは、峠から下りていない。峠で歩みを止めず、純粋化、極限化の地平を生き続けさせる道を取ったのである。
1982年以降のこの歩みを、ここでもまず画面の表面的な見え方を辿って言ってみると、1882年には、画面が正方形の四角で分割されたようなものになり、続けて1983年には、かつての「等価性」連作に見られた水平の分割が、今度は装いを新たにして現れる。そして1997年以降、画面がいわばその両者を綜合する試みになって、現在まで来ている。
例えば1983年の水平の分割の作品。これは墨で全面を黒くした韓紙(韓紙を墨に浸した)の上に、白い韓紙を横長に帯状に切ったものを貼り付けて作られている。(ちなみに彼の場合、変化あるいは転換の時期には、画布ではなくて韓紙や墨の作品が試みられる。)
これは作り方としては、画布の場合なら絵の具の面にあたるところが、墨一色になっていて、その上に白い韓紙の面が乗る、という格好になっている。しかしここで注意しなければならないのは、墨の黒い面も韓紙の白い面も同格であり、二つが一緒になって「絵画空間」を成している、という点である。ここで韓紙の白い面のほうが、たんに上にあるからという理由によってではなくて強いのは、そして上になっているのは、それがいわば直前の「3年間」の白の面の延長だからなのである。白い絵の具の代りに白い韓紙を使っているということだ。帯状に切って貼っているのは、正方形の分割のヴァリエーションである。絵の具の代りに韓紙を使った。そして韓紙を使うことで、墨による黒い面が必要になった。
それと同時に、本来なら「地」と「図」に使われるべきものを逆転して使ってみたいという意図もあったように、僕には思われる。「地と図」の関係を無化する、それを一つのものとする。その試みが継続されているのである。それゆえ、これを紙による習作のようにみなすことは正しくない。これは依然として、あくまでも絵画の試みだからである。
10 持続
そして、1997年から現在まで続いている作品群を迎える。これは既に20年にも及ぶから、そのあいだに多少の変化、というよりヴァリエーションがあることは言うまでもない。しかし稜線上を歩むという基本は崩さずに現在まで来ている。稜線の道はもちろん平らかでも歩きやすくもない。下りもあるし、登りもある。
制作上、以前とくらべて重要な変化が二つある。一つは「筆触(のように見えるもの)」が変化していることである。もう一つは油絵具からアクリル絵の具に変えたことである。支持体は変らずキャンヴァスだが、顔料を水溶性のものに変えたわけである。
以前の作品における「分割」が在り方を変えている。画面上に水平また垂直の線が見えるが、それは途切れ途切れである。しかも、それはじつは「線」ではなくて、上の白い層の裂け目からはっきり、あるいは薄く見えているのは下の黒い層だからである。ここでも、下の黒い層は筆で塗られているものではなくて、韓紙を墨に浸して全面を黒くしたものである(だから顔料はここに墨、そして上に白いアクリル絵の具である)。この黒い韓紙がキャンヴァスに貼ってある。貼ってはあるがこの黒い韓紙は支持体ではないことに注意すべきである。韓紙を墨に浸しても、彼にとってそれは「描く」ことと等価である。筆触を無くして、「描かれた面」を純粋な面にするためなのである。その画面の上に白い絵の具の画面が重なっている。
上の白い層は、下の黒い層とも、かつての「3年間」とも違って、均一でも平らでもない。しかし画面全体から受け取る印象はそんなに大きく違っているわけでもない。1983年の、墨で黒い韓紙の上に白い韓紙を横長に帯状に切ったものを貼り付けた水平の分割の作品を思い出すなら、今度は、垂直も加わり、そして白い韓紙が白いアクリル絵の具に変り、韓紙を切って貼る代りに、描いている。それも、眼を近づけると縦と横の筆触がはっきり見える。あの「3年間」までが筆触を無くしていく歩みだったとするなら、今度は筆触を許容している。しかし通常の距離まで離れて見ると、筆触はあまり気にならない。むしろ、筆触というより画面にある種の「動き」を与えている要素のように見える。試みが緩んだのではなく、極限化に幅が与えられたとでも言ったらいいだろう。
下の黒い層についていうと、それは「地」ではない。画家にとってはそれと上の白い層とで絵画になるのだ。観客の多くは「地」の再来と考えるかもしれないが、まあそれでも構わない。観客がげんに見ているのは全体だからである。下の層は墨に浸すことで完全に純粋化、極限化して、「地」ではなくなっている。さらに、このようにいわば完全に暗転させることによって、第一に、上の層とは正反対の画面を実現して画面全体にさらなる厚み、広がりをもたらしている。第二に、極限化はすべて下の層が引き受けることで上の層に自由さをもたらしている。
11 絵画空間
上の白い層は、従来通り、幾層にも塗り重ねられている。あの「3年間」の塗り重ねは各層が全く均等に平らだったので、その塗り重ねが生み出す「広がり」は、そこ、画面上で完結していた。ちょっと観客を寄せつけない厳しさがあり、またそれが素晴らしかった。今度は画面が二層構造であり、そこに生れている「広がり」が、はっきりと見える。観客の方はいわば緊張から解放された状態でそれを見、味わうことができる。観客がここで受ける「解放された」感じは、一つの「可能性」、ないし一つの「肯定」の感触である。でも、それは再び絵画に、従来の絵画に回帰することで生れているものではない。崔明永は極限の地、峠のところで、従来の絵画を踏み超えてしまっている。それを踏み超えながら、狭い可能性、稜線という可能性の道を歩んでいる。狭い地平、限られた肯定の地平のなかで試みている「絵画」なのである。この点を見誤ってはならないのだと思う。
描く崔明永にとっては、均等に平らに塗るという、僧侶の修業のような制作仕方に幅ができた。例えば写経という修行でいうなら、経文をそのまま書き写すにしても、字体を自分なりに変えることができるようになっている。いずれは経文の代わりに自分の文章にする、そんなことも起り得るかもしれない、とすら夢想してみる。そういう一種の余裕が、均等で平らな塗りを、かなり自由なものにしている。あの「3年間」は筆は水平に運ばれていたのにたいして、今度は垂直にも動いている。しかし斜線とか曲線はなく、全体の構造が緩んでいるわけではない。でも、縦と横に筆を動かすことができるだけでも、画家の身体が格段に自由になるだろうことは、想像に難くない。この自由な感じが作品に反映し、横溢している。そして観客もそのお相伴にあずかるのだ。本当なら苦しいかもしれない稜線の登りくだりを、導師に導かれて観客もゆったりと辿るのである。ゆったりとは辿るけれど、それはこれからもずっと狭い道なので、「ゆったり」といっても緊張に満ちているし、そんなに楽な道ではない。
乾燥が速いアクリル絵の具に変えたことで、塗り重ねについても、以前より自由度が増している。以前は一層を塗ったら、それが乾くまで待たなければならなかった。今度は、画家はつねに画面全体を見ながら、そのどの箇所にも、適宜、自由に筆を走らせることができるようになっている。塗り重ねが、縦方向にも横方向にも、いつでも自由自在になったのである。だから、あの「3年間」よりは、制作の仕方も結果の作品も、より絵画的になっている。
ところで、この黒い韓紙という下の層が「支持体」や「地」ではないこと、それも、そこも「絵画」であること、そしてそれがあってこそ二重構造がもたらされて「広がり」が生れていることは、さきほど既に言った。
支持体や地でなければ何かというと、それは、それじたい絵画の一部でありながら、同時に、絵画の「基底」をも成している。そういうものである。たんなる底ではなくて、上の白い層と対をなす地平という意味での「基底」である。そうして、敢えて図式的にいうなら、上の白い層が「実」であり、下の黒い層が「虚」である。そして勿論、その逆も真である。上の層の色彩、自由な制作行為、筆触という「実」は、下の層の「虚」に支えられている。それは、下の層の「虚」が無ければ、たんなる絵画で終ってしまう。逆に、「実」としての下の層は己れと正反対の現れを、「虚」である上の層に担ってもらわなければ、「虚」と見える「実」である自分を充実させることができない。
「絵画空間」というものが、形や物語の表現でも抽象的構成でもなく、それでもなお存在しうるとしたら、それは「虚」であり「実」でもある、一つの「広がり」としてしか在りえない。あの「3年間」の作品で、それを「虚実」が一つのものになった構造によって実現した崔明永は、今度は「虚」と「実」を、密着させながら離すという構造によって実現しているのである。「虚」と「実」が密着しているから、この「広がり」はつまり狭い、とも言いうる。心と感覚と身体の位相だけに限定されたものにすぎない、とも言いうる。それでも、これは「絵画」である。しかも「新しい」絵画なのである。
12 光
近代以降の、つまり現在の絵画とはどういう試みであるべきだろうか?
僕は、過去の「繰り返し」ももちろん否定しないし、新しいテクノロジーに依拠する試みももちろん否定しない。ただ、前者については、非西洋地域には可能性は少ないと思うが、西洋というより西欧ならば「洗練」ということがありうると考えている。「洗練」の力を侮るべきではない。他方、後者については目新しさは芸術の本質とは関係ないと思うので、西洋においても非西洋地域においても、まだまだ時間がかかると考えている。ビル・ヴィオラ(Bill Viola)の昔の言葉を借りれば「ヴィデオ・テープはヴィデオ・アートではない」のだ。
いずれにしても僕は、絵画とはそこに一つの独自の空間を生み出すもの、作り出すものであるべきだと考える。依然としてそう考えている。形とか物語ではない絵画を目指した崔明永もそういうことを試みてきた作家の一人であることをここで語ってきた。「一つの独自の空間」、それを「広がり」とか「空間」と呼んできたのだが、ここで、また別様に言い換えてみる。
あの「3年間」の作品では、幾層もの塗り重ねのなかに畳み込まれた「空間」が、不思議なことに最上層の画面に滲み出すように現れている。そして1997年以降の作品においては、作品が二層を成しながら一体化しているので、「空間」はまさしくその間に、より見え易いように現れている。そういう「空間」、あるいは「広がり」を眼にしながら、2015年9月のソウルの彼の個展会場で、僕の脳裏には一つの言葉が現れようとしていた。その時は口に出さず、その後、自分のなかで反芻していた。「光」という語である。
僕が見ていたのは絵画作品なのだが、眼で感じていたのは名付づけ難い「空間」ないし「広がり」だった。その時、ふと、「光」を感じたのである。「光」が見えたというのではないけれど、「光」のようなもの、雰囲気を感じたのである。まなざしが下の黒い層と上の白い層の位相差に捉えられた途端、下の層の向う側と上の層のこちら側の両方へ、まなざしが同時に引っ張られるように感じて、これは何だろうと思った。その瞬間、「光」という言葉が浮んだ。この「広がり」はつまりは「光の広がり」なのだ。あるいは、「光という空間」なのである。あるいは、「光」によっていわば裏打ちされた「空間」なのである。現実の物質とはいえないかもしれない「心・感覚・身体性」が現実化する、空間化することを支えているのは「光」なのである。
ほとんど線ほどの幅しかない「黒」の部分が眼に強く作用するのが不思議で、そこに魅入られていると、「それ」が暗い水面のように、静かに、眼に見えるようにではなく輝いている、と感じられてきた。その輝きは深みからやってきていると感じられ、その「向う側」にまで広がりが繋がっているように感じられた。広がっているのはつまり「空間」、現実的というよりは感覚的、心的な「空間」だというべきかもしれないが、僕がそのように感じ取る現象を支えているのは、究極のところではこの「光」の感触なのである。
さらに、向う側ではなくこちら側の白い層に眼を遣ると、塗り重ねられているにもかかわらず、その厚みは軽やかである。それは塗り方とか筆触に由来するというよりは、アクリル絵具の水溶性の溶剤に由来しているだろう。油性の溶剤が光を通さないのと異なり、こちらは光を通すからである。彼の画面では、光は上の層からこちら側、手前側へもやってくる、幾層もの塗り重ねを超えてだ。
光が無ければ世界が眼に見えることはありえない。人間にとって光は初めから与えられているものだから、人間は普通はそのことを考えもしない。考えもしないうちに、人間は光にたいする感受性を鈍らせてきたように思われる。何かが眼に見えるとき、人間は見えている世界ばかりを感じ取っており、そのことじたいを可能にしている光そのものは感じられなくなってしまったのだ。絵画は、そういう能力を回復するためにあってもいい。勿論、絵画はそのためにだけ存在するというのではない。しかし、近代絵画がその役割を終えつつある今、絵画が別の方向を目指し始めている今、画家が、例えば崔明永が、絵画を従来の意味での空間ではない「広がり」を求めている今、画家自身が意図しなくても、「光」の方から「絵画」へと訪れてくる。そういうことが起りうる。
光を描いているとか、光を表現しているとかいうのではない。しかし崔明永の絵画は、光を呼び込む。そして呼び込まれた光が、彼の絵画の空間の「地」となっているのである。山の稜線上にあるときに、光がその両側からやってくる様子を、僕は想像する。そういう稜線上を辿り続けること、辿り続けることができること。それは、そこが山の頂上だとは言わないが、稀有なことである。■
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